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世界のホンダ 本田宗一郎

本田技研工業の創業者 本田宗一郎。

日本人から人気のある創業者の一人で、現在でも多くの人に影響を与えています。

今回は本田宗一郎の生涯や名言についてご紹介したいと思います☆

honda

【生い立ち】

1906年、静岡県生まれ。小さいころから自動車や飛行機などに関心を持ち、高校卒業後には「アート商会」に入社。自動車修理の経験を積みました。
第2次世界大戦後は「人間休業」と宣言し、1年間仕事しなかったといいます。
その後、1948年に「本田技研工業株式会社」を設立。浜松に本社を置きました。

【藤沢武夫との出会い】

戦後、二人は東京のバラック小屋で出会います。「浜松の発明王」と呼ばれていた本田でしたが、「東京に出て本格的なオートバイが作りたいが金がない」と藤沢に話しました。福島で製造所を営んでいた藤沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを作りたい」と二人は意気投合し「モノづくりは本田、カネの工面は藤沢」と役割分担を決めました。藤沢はその場で製材所をたたき売り、資金を作る覚悟をしたといいます。

後に藤沢は二人の出会いをこう語ります。
「私はあの人の話を聞いていると未来についてはかりしれないものが次々と出て来る。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば本田の夢はそれに向かって突っ走っていくだろうと、そう思ったのです」

本田も「藤沢がいなかったら会社はとっくに潰れていた」といいます。
藤沢も「本田がいなかったら会社はここまで大きくならなかった」といいます

そんな奇跡的な二人の出会いがホンダを世界のホンダへと成長させることになるのです。

【安全第一】

社員が会社で高価な機械を壊してしまった際は、まず社員の体を心配したといいます。
青ざめていた社員に本田は「機械は直せばいい。でも、人は手や足を切り落としてしまったら元には戻せない。人にけががなかったのが一番だ」といったそうです。

【スーパーカブの大ヒット】

本田の関心はもっぱらスピードと馬力のあるエンジンでしたが、藤沢は市場を見ていました。3種の神器が普及し、主婦が消費の主導権を握る時代になっていました。そこで、藤沢は本田にゴツゴツとしたオートバイではなく、「50ccで女性も乗れる家電感覚のオートバイを作ってくれ」と頼みました。最初は無理だといった本田でしたが、藤沢は「これがないとホンダの発展はない」といいます。そこから発明に着手してから1年8か月、昭和33年にスーパーカブが誕生し、たちまち大ヒット。藤沢が発案し、本田のものづくりの才能を発揮した「スーパーカブ」はその後も大きなモデルチェンジすることもなく、発売44年目には累計生産台数3500万台を達成しました。

【会社は自分のものではない】

株式会社なのに「本田」という名前を付け、個人企業と思われてしまうのを後悔したそう。会社は個人の持ち物ではない。という考えから本田も藤沢も子どもを後継者に入れず、大卒第1号で入社した河島喜好を後継者にしました。その後65歳で引退し、数千か所ある販売店や工場である従業員にお礼が言いたいと全国行脚の旅にでます。

【自分が死んだら】

生前、本田宗一郎はこんな言葉を残します。
「素晴らしい人生を送ることができたのも、お客様、お取引先のみなさん、社会のみなさん、従業員のみなさんのおかげである。俺が死んだら、世界中の新聞にありがとうございました。という感謝の言葉を掲載してほしい」

 

 

このように、たくさんの人への感謝の言葉が出て来る本田宗一郎氏は幸せな人生だったと思います。
このような生き様が現在でも多くの人に感動と影響を与えていることでしょう。

 

 

まだまだたくさんエピソードがあるのですが書ききれないのでこれくらいで(~o~)/

今回は本田技研工業の創業者本田宗一郎氏についてでした。

 

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